WTBW Text Blog

Weekly Teinou 蜂 WomanにUPした記事内テキスト抜粋Blog

オカン、怒りの矛先

 私、わかったんですけど、オカンはけっきょく誰かに怒りをブツけていないと、精神の安定がはかれないのではないか、と気づきました。

その対象はつい最近までは私の弟だったんですが、彼女のキョーミは弟から息子のオン(オカンにとっては孫ですね)に対象がうつりました。ここまではよかった。

どうも最近、オンの悪さが目立たなくなってきました。母である私としては喜ぶべきなのですが、そうとも言ってられない状況になってきたのです。つまり、対象が私に戻ったのではないか? そんな懸念が頭をよぎります。

 
うすうすは感じていましたが、家族内では唯一まともである私です。
「いやまさか」
という気持ちでいたところ、昨日、決定的な出来事が起こりました。

実家にて。
私は食後、ソファにふんぞりかえってタバコを吸っていました。そしてつい灰をじゅうたんの上に落としてしまいましたがもちろん知らんぷりしていました。

そしたらあのやろう、あのやろうとはオンのことですが、
「おーい、ばばちゃーん、灰落としてるよ、白いじゅうたんに!」
とオンが、わざわざ床の色までつけて大声でチクッたのです。反射的に手で灰をササッとかき消したのですが、白いじゅうたんが見事なグレーに染まっていきます。

「あ、手でこすって灰色になったぞー」
とこれでもかとチクりをエスカレートさせるオン。私のマンコからでてきたとはとても思えない仕打ちです。
オカンはなにやらヒステリックに叫びながら掃除機を出してきました。私だって掃除機くらいかけられますが、彼女の城である実家で私が掃除機をかけることなどたぶん彼女のプライドが許さないでしょう。というかまともにかけないので、さらに激高しながらやり直すに決まっています。食器を洗っても服をたたんでも、すべて自分でやり直す、それがオカンという生き物なのです。

 
怒りに支配されたオカン。
こういうときはひっそりと家具に同化しながらじっとしていることが最善の策であることは、50年間彼女を見てきた私が一番良くわかっております。まあそれはそれで腹立たしいのでしょう、オカンはなにごとか散々なじりながら掃除機をかけ、じゅうたんはみるみるキレイになりました。

このような場合、まあ長年の知恵とでもいいましょうか、そそくさと帰るのが最善策であることも私は知っています。そこでさりげなく玄関に向かったところ、オンが
「おい、携帯忘れてるぞ」
とこちらへ飛んできました。

おそらくチクったことへの後ろめたさもあるのでしょう。そしてテーブル越しに私のほうへ手を伸ばした瞬間、お茶の急須を床に落としたのです! オン、バチがあたりました!  今度はブルーのじゅうたんに、お茶の葉がバラバラ……。

「あああっ!!オカン!オンが急須を落としましたーっ!!お茶っ葉がこぼれてる!」
意気揚々と通報したところ、今度はぞうきんを片手にオカンが中腰で突進してきました。そして驚くべきことに
「アンタが携帯を忘れるからいけないんでしょ!だいたいいっつもモノを忘れすぎんのよっ!」 

ええぇ……

オカンは狂ったように床を拭いていました。その姿があまりにも狂気じみていたので、私は猛ダッシュで家を飛び出たのです。家を出ちゃえばこっちのもんですからね…… それにしてもオンのやろう……いい歳こきやがって親を陥れるとは……。

それはいいとして、このように私は幼少の頃より、着の身着のまま飛び出したまま、ほとぼり(オカンの熱)が冷めるまで数日から数ヶ月、キセル放浪の旅などに出てのんきにやり過ごすなどしていたわけですけど、まあ、ね、もうね、大人というか、ね。

立派な中年というか初老というか後期高齢者といいますか、まあそんなところですからそのようなばかげた事はしませんけども、しかしながら
(んーどうも腑に落ちないなあ、ああそうか、オカン怒りの対象は今は私なのだなあ……)
ときっちり悟ったのでした。 

順番からすると次はオトンの番です。
 
 
 
 
 

狂気の時代に幼少期を過ごすと……     

ほぼ自宅にいないのになんだこの住民税の額は。



過去を振り返って「昔はよかった」というのはただの過去自慢にすぎない。
ダサい言動のトップに君臨しているのは十分理解したうえでそれでもなお伝えたい欲に駆られる瞬間がある。

今です。

引田天功の脱出マジックにドキドキしたり、ユリ・ゲラーの超能力にあやかろうと子供から老人までテレビの前でスプーン曲げに挑戦したり、ツチノコを必死に探したり、オリバー君とヤろうとする女がいたり、口裂け女人面犬を見た人(マジで)続出だった狂騒時代、アレ、なかなか楽しかった。まともに考えたらみんな頭おかしい。

そんな中育ったなりの果てがコレこと私です。

過去がいいとか悪いとか、今がダメというわけでは決してないけれど、2018年に彼らが出現しても、一億総小姑化したSNSの時代だ。一晩叩かれて即座に「過去」として流されるだろう。

人も国も文化も、進化しているしそうでなければならないんだろうがそれはかなり退屈だ。小市民の正しさが声をあげ、人類はますます賢くなっていく。つまらない。正しくて賢くてまっとうなものは総じてつまらないな。

女性器なんて呼んでるアンケート『土屋遊マンコ係宛』のメールが10通以上きた

カンケーないけど、数年前、当サイトでは女性器のことなんて言ってた?アンケートなどをとってよろこんでいました。

「われめちゃん」「おまた」「おめこ」「チャンペ」「おしっこのとこ」「おじょんじょんさん」「おぱんぽん」 「ホーミー」「オベッチョ」「べべ」「お富士さん」などのナゾの言葉で埋め尽くされてなんだかメールソフトが大変な事態になっていたんですね。そして礼儀正し くも『土屋遊マンコ係宛』のタイトルのメールを10通以上頂戴し、自分で決めたとはいえ、受信時にはさすがにドキッとしたものです。
こんなハナシを思い出したところから始まったんですね。ばかみたい。

---


あれは小学校2年生の頃だったでしょうか。
オカンの友人宅へ泊まりに行った時のことです。
友人達は、女臭ムンムンの女性達ばかりが集っていました。みなさんけがわらしい異性関係を遂行していたようでしたから子供は私一人。そこで飼われていたドーベルマンとシェパードだけが話し相手でした。(その後火事で焼け死んだそうです)
さて。オカンが私に、そろそろお風呂に入れと促しながら
「よそのお宅なんだからお湯につかる前にきちんと体を洗い流しなさいよ」
と言ったあと、銀座のマダムをしていたババアが
「ちんちんも洗わなきゃダメよ~」
と続き、他の女どもも
「ははは!女の子だからチンチンじゃないじゃな~い!?」
などといい気になって笑っていました。
私はなんだか自分がバカにされたような気になってシャクに障りましたが、かしこい私はそういえばちんちんは付いていないのになんでちんちんと言うのだろうと思い、
「ちんちんじゃないなら何て言うの?!」
と聞くとまたさらに笑い転げているだけで誰も答えてくれません。
「ねえねえ!女の子のちんちんは何て言うの!何て言うの!」
としつこくしつこく食い下がっていると全員黙りこくってしまい、メス豚どもに勝利したような気分になったことと、そのあともちろんカラダもマンコも洗わずに入水、大理石のバスタブに放尿して大満足したことを力強く覚えています。


しかし私はいつ女性器を俗語でマンコと言うことを知ったのでしょうか。
道ばたに落ちていた小汚いビニ本でしょうか。それとも寿司屋の息子が「押し入れに入っていた。怖いよ~」と泣きながらせんべい屋に持ってきたSMスナイ パーだったのでしょうか。もしかして小平図書館で見た衝撃本『ぼくどこからくるの』と言う性教育の本だったでしょうか。あの時は翌日に大勢の前で朗読した ものですが確かヴァギナという聞きなれない言葉はあってもマンコというわかりやすいヒトコトはどこにもなかったような気がします。


それにしても、男女平等がヒステリックに叫ばれる昨今において、チンチンだけが大衆化し認知度も高くなんとなく口にしても許される傾向にあるのはいったいどうしたことでしょう。
しかもチンチン、チンコ、オチンコ、ポコチン、チンポコ、オチョンチョン(Myオカン発)とバラエティに富んでいるのに対し、マンコの貧富さ、子供時代におけるその普及度といったら嘆かわしいかぎりです。
女性平等を唱えるおそろしい形相のオバさま方は、ヒステリックに女性蔑視を訴える前に、まずは自分の娘、親戚一同、町内会のみなさま方に対して「自然にマンコと言える社会」にするべく、『マンコ宣言普及活動』を地道に行うべきだと思います。


---



結果はこんな感じだったんですよねー
「そのほかバリエーション」がすごすぎる、ニッポンの女性器


項目名 票数 グラフ
その他 409
(お)マンコ 269
アソコ(アレ) 258
(お)ちんちん 104
(お)マンマン 37
ヴァギナ 20
(お)チンコ 18
 

27才の悟りと52才の悟り 

私が考える悟りのイメージ 

「ちゃんと土日休めて、あるていどのお金が入るのが1番だな〜って最近思い始めたんっスよね〜。年なのかな?」

こちら、弱冠にプラス7年、27才男子の発言である。というか生まれてまだ27回しか年末年始を迎えていないのである。というか息子のオンと同じ年である。というか隠毛も生えそろっていない可能性がないとも言えないではないか。

こんな、時勢を達観した考え方に感嘆した。正直、彼の倍近く生きたであろう私でもこの境地に達していないというありさまだというのにこの悟り。

「すごい…おじいちゃんみたい…」
とつい口走ってしまった。いい意味で、だ。いい意味でのLike a おじいちゃんだ。

その後、
「この世の食べ物で何が一番好きか?」
という私の質問に、ほかの人たちが
「お寿司」
「ラフランス」
「北京ダック」
と即答する中で、長考していた彼が言い放った。

「ん〜……ラーメン? かな」

かわいいな、オイ。
(即答で北京ダックもどうかと思いますが……)


たぶん、何かを悟ってしまった推定4歳児

27才の安定話のことをしばらく考えていた私も52年生きたなりの悟りを開く決意を固めた。そして悟りはあっさりと10分程度で開いてしまった。真理を得心するには意外と時間がかからない。私の悟りはこうだ。

贅沢は言わない。自由に起きて好きな時に寝て、モーレツに仕事してキョーレツに遊ぶ生活がいい。

これを発表したところ
「それはサイコーの贅沢」
と一同に返されたのでちょっと解せないでいる。
サイコーの贅沢に「モーレツに仕事」など入ってたまるか。

ところでまったく関係ありませんが、こちらはうんこ当てクイズのオモチャです。



画期的なので親戚の小学生に贈ってデンジャラスおばちゃんと言われたい。

緊急地震速報音を作った人は、ゴジラのテーマ曲を作った伊福部昭先生の甥     

昨日、仕事をおっ始めようとパソコンに向かったところ、轟音が聞こえて怯んだ。
マンション内の警報かと思ったら、すぐそばに置いてあったスマホことiPhoneからで、「貴様、そんなでかい音だせるんか。つか何?」とたぶん5秒くらい凝視してしまった。

ミサイルが飛んでくるような勢いの警戒音。
すぐに地震速報だと気づいたけれど、あれはいかにも人間をたじろがせる。後期高齢者、よく心臓発作起こさないな。音を作った人、すごくないですか? 心理学者とタッグを組んだのかもしれない。あの音にビビらない人がいたら頼もしいな…と思ったけれど、慣れというものは恐ろしいもので、四六時中聞いていればビクともしなくなる可能性の方が高い。

こういうときは、何をおいてもTwitterである。
あの音に起こされたという人が散見された。
そっかーすでに寝てる人もいるのかーと思ったらパソコンに向かっている己がバカらしくなってしまった。
その後しばらくTwitterをしていたので、けっきょくはもっとバカバカしい時間を過ごしたことになる。

それにしてもあの音は見事だ。
目覚ましのかわりになるアラーム音を散々探した過去がある私からすると、この音源こそ買ってでも入手したい。やればできるんじゃないか、と、出来の悪い息子だと思っていたけれど意外と頼もしいなと感心している親のように、誇らしい気持ちに満ち足りていた。

一夜明け、冷静な脳で考えてみたら、やればできるけどあえてやらない息子ことマイiPhoneにはかわいさ余って憎さ百倍。いやちがう。そもそもかわいくはない。かわいさ皆無。「無」の最高位。音出さないならとっとと捨てるぞと言いたいところだが、そんな潔いことができるはずもない。便利の塊を手放せないただの現代人になってしまったな。



余談というか、このアラーム音ではなくてテレビ局の緊急地震速報音は東大名誉教授が作ったとのこと。ゴジラのテーマ曲を作った伊福部昭先生の甥にあたる。なるほどねーと思った。なにがなるほどなんだかわからないけどそう思うことってありませんか? 私はあります。今です。

子育ては三種の神器(ルンバ・衣類乾燥機・食洗機)がマストと喧伝する小さな罪   


「共働き子育てには、三種の神器(ルンバ・衣類乾燥機・食洗機)がマストアイテム! シッターも便利に使って、たまにはハウスキーパーにおまかせしましょう!」
というツイートが、たまにすごい数で拡散されている。
リツイートは否定の意味もあったりもするけれど、これに限ってはほぼ100パー賛同の意味でまちがいないだろう。

私はそれを目にするたびに、ひとり親家族やアパート一間を余儀なくされてる親がみたらつらいなコレとか思ってしまう。

オカンがめずらしく小学校のPTAで一悶着起こしたことがあった。

「修学旅行の積立金は一括で支払うことにしましょう」
という提案者らとモメたのだった。なかには滞納者もいてその催促が大変だという理由だったらしい。
ほとんどの役員が賛同する中、オカンは頑なに反対した。
これは、人に好かれたい一心で、対外的には自分の意見をすぐに曲げてしまう外面がいいオカンにしてはめずらしいことだった。

今はどうだか知らないが、私たちの住んでいた地域(あるいは時代)は貧富の差がわりと顕著だった。
富裕層は家が迷路のような豪邸もあったし、夜会のようなロングドレスやネクタイを締めてスーツを着てくるような小学生もいた。反面、貧困層は小学生高学年で新聞配達をしているような家庭もあった。
幸いだったのは、私の知る限り、ドレスやスーツもお古の服を着た子供たちも、傲慢にも卑屈にもならずに自分の状況を受け入れて、ただ「気が合うか合わないか」で遊んでいたことだ。



子供や若年層から学ぶことがたくさんあると私がいつも思うのはこういうところだ。
まだ私たち子供は親からの(悪い意味での)情報を体内に注入することなく過ごせていた時期で、資産・家柄・所有物・家庭環境などで友達を選択するなんてバカげたマネはけしてしなかったし、そもそも考えも及ばない。
性善説ではないけれど、これがきっと人の原点で、差別をはじめるとしたらそれは身近なものからの「情報」がそうさせてしまう。

で、件の修学旅行積立金の話に戻る。
よほど悔しかったのだろう、この流れはその後オカンからなんども聞かされることになるのですっかり把握してしまった。

子供が働いている家だってある。当時はめずらしかった母子家庭もあるのだとオカンが説得を試みたら、そういう家庭は充分な生活保護をもらっているから実際は不自由していないし、払えないはずはないと反論され、その時点では一括払いが決定したらしい。(その後覆されたような気もする)

うちはたぶん、一括払いが難しい収入ではなかったはずだが、他人の生活状況を考慮する人がほとんどいないことにオカンは憤っていた。
帰宅後もオカンの激昂は収まらず、興奮のあまり震えながら泣いていたのを思い出す。
その怒りの原点がまだ理解できる年齢ではなかったけれど、こりゃ今なにかしでかして刺激したら大変なことになるぞ…とやたら身の安全だけを考えた記憶が鮮明にある。

一括払いの提案者は友人の母親で、家に行けばやたらお菓子をくれるやさしいおばちゃんだった。だが彼女もまた「三種の神器はマストです」と断言する類の人なんだろうと今なら思う。きっと悪気はない。だが、無知は罪という言葉を、今こそ使いたい。



また、これは成人してからの話だが、クルーザーを成人の祝いにもらうようなボンボンの男友達がいる。彼が、
「僕ら金持ちも貧乏人も、時間だけは平等だからねえ……」
と言ったことがある。
その時、
「はあ? 何言っちゃってんの? 」
と、飛行機と青春18切符、タクシーやチャリの話をして「貴様はアホか」と反論したけれど、それはまた別の話なので割愛する。

この内容は気に入らなかったけれど、彼が「金持ちと貧乏人」とキッパリ分けたことが、ふだんの発言もふまえてではあるが私はうれしかった。
『貧乏人』という言葉から、差別的な要素を感じとれるかもしれないけれど、彼にそういった意識がないのは明白だ。(だって私と友達ということからもわかるだろう)
言葉は悪いかもしれない。けれど、それは差別ではなく事実だ。彼はちゃんと、そういう暮らしがある、つつましく生活している人たちがいるという事実をちゃんと知っている。
三種の神器、マストじゃん?」
とは言わないということだ。

先述のマストアイテム主張ツイート主も、一括払いの友達のかあちゃんも、もちろん人を蔑んでいるつもりは毛頭ないだろう。わかる。

けれど少なくとも、「(三種の神器)あたりまえ」という風評にならない世間を私は希望しているし、自分の環境しかわからない、わかろうとしない人間に、たとえば政治家や教師になどなってもらったらマジでヤバくないですか? と私はつくづく思うのだ。

「絶望」。ちょっと待って。



「一度メンタルぶっ壊してしまったら、立ち直っても昔の自分には戻れない」という旨のツイートがたくさんの賛同を得ていたので、「ちょっと待ったーーーーー!」と言いたくなってしまった。

言いたくなったけれど、この説を否定するつもりはないし、もちろん赤の他人にちょっとタンマをするつもりもない。

ただ、そういう方もいますでしょうが、そうでないケースもありますよね、と言いたい。今、絶賛絶望中の人たちに言いたい。

戻れない人もいれば、完全復活する人もいるし、さらにパワーアップする人もいる。そして、立ち直る前にこの世からあっさり消える人もいたりと諸々一概にぜったいとは言い切れない。これは元来の性格にもよるものかもしれないし、物理的なナニか、かもしれないけれど、絶対的にオール戻れないわけではないです。

ソースは私ですので。

もちろん個人差はあると思うけど、私の場合は丸3年間ダーク沼にいた。
・最初は底なし沼からあがきもがいて
・そのうち生活を地獄と称しては、ここから脱するためのただひとつの方法(死)に支配され
・最後は気持ちを「無」にしてただ息をしているだけの物体になれば楽になるかもしれないと試みるも失敗しつつかろうじて歩く。
鉛のような足を一歩ずつ、右足…左足…ここで一呼吸。比喩ではなくこうして歩み進めては疲弊することを積み重ねた生活は、皆さんよくご存知の「生きる」ってことだったんだと思う。ある日突然理由もなく霧が晴れたのはラッキーだった。



あらゆる関係書籍をかたっぱしから読んで、実践しつつも途中で挫折。病院を転々として薬にも詳しくなった。それらが役だったかどうかといえば怪しいけれど、まったくすべてが役立たずだったかといえばそうとは言い切れないというかわからない。

ただ、理由は何にせよ「メンタルの破壊」(あるいは何かがトリガーとなった病気といってもいいかもしれない)、この体験がよかったかよくないかといえば、身内や友達にはぜったいにこんな経験をさせたくないという点でよくないと思う。できることなら無傷で一生を終えたほうがいい。

でもですね、あんなに強靭な精神と能天気な性分を自負していた私でさえ損壊したのだ。どんな人でもなりうる。なったからといって完全絶望しないでほしい。

いや、真っ最中は絶望的だ。そりゃもうすべてが、なにもかも、そこらへんを歩いてる人たちも、遠足中の子供たちも、カートを押す老人も、目に見えるすべて、想像するぜんぶが絶望以外の何者でもなくなる。けれどもとりあえず息さえしていれば、絶望を脱する、つまり、一抹の希望がでてくる可能性はゼロではない。
もちろんこれから先、這々の体で何年生きていたところで、死ぬその瞬間までなにひとつ変わらないかもしれない。けれども希望がでてくる可能性はゼロではない。今ここで死んだらゼロだけど、死ななければゼロじゃないよね? わかるかな。わかるよね? ゼロじゃないよね? って言いたい。

まぁ死にたければ死んでもいいと思う。それは悪ではないし、悪とか罪とか決めたのって、あとに残されたものの勝手なご都合だしそんなものに縛られることはないけれど、罪悪とまで言ってよく引き止めてくれましたな、ありがとうご都合主義ども、とも思えます。

死なない方が可能性はあるので。ゼロではないので。自己嫌悪がピークに達したあとだって、また「うわ〜自分ラブい〜」と自己愛に満ちたラブライフを送ることができますので。たぶん、だいじょうぶ。だいじょうぶなんで。だいじょうぶです。